らびっとクリニック院長の医療雑話

痛みは痛みをひどくする

投稿日:2012/1/25

喉元過ぎれば熱さを忘れるなどと言うのは、辛いことも少し我慢すれば慣れっこになるというくらいの意味でしょうが、こと痛みに関してはこれは当てはまらないと思います。私たちリウマチ医に限らず、多くの慢性疼痛に関わる医師の間では、あらゆる痛みは必要十分に抑えるべきだという認識でおおむね一致しているのではないでしょうか。癌性疼痛に対するオピオイド、三叉神経痛や帯状疱疹後の神経痛に対する抗けいれん剤、坐骨神経痛に対する硬膜外ブロックなど各科ごとに痛みをとるための様々なツールがあります。昔なら、痛みを取るということは二の次でより生命にとって必要な治療に全力を注ぐべきだというようなパターナリズムがまかり通っていました。痛みを我慢させてもいっときのことだ、と思われていたのです。しかし慢性の疼痛では、逆に長期間続く痛みが痛みの閾値を低下させるのだということが指摘されるようになりました。痛みの持続がかえって痛みを強く感じさせてしまうということです。

私たちが生まれ、幼少期を過ごした高度成長期の時代には美徳であった努力、辛抱、根性というパラダイムが、慢性疼痛の患者にあってはむしろ病状を複雑化させる足かせになっていることも少なくないのです。

痛みを心理的要因ばかりで捉えるべきではありませんが、痛みに関わるスキームの介在に気づいてみると、そこにその人の長い歴史が見えてくることもあります。

医療従事者自身が病気になった時

投稿日:2012/1/16

子供の頃の私は読書があまり得意ではありませんでした。得意ではないというのは、嫌いという意味ではありません。長い小説を最後まで飽きずに読み通すことが苦手だったのです。そんな小学生の私が初めて投げ出さず最後まで楽しめた長編(中編?)小説が、先日お亡くなりになった北杜夫さんの「船乗りクプクプの冒険」でした。中学生以降、北杜夫さんの本を集中して夢中で読み耽りましたが、「楡家の人びと」だけは手をつけてはみたものの歯が立たず、結局読み終えたのは40才台になってからでした。医者のライフスタイルがある程度わかった後に読んだのでこのときには理解できるところが多かったのです。とくに主人公の養子、徹吉の生き方や葛藤に共感を覚えました。

北杜夫さんといえば躁うつ病(現在は双極性障害と呼びます)を長らく患っておられたことでも有名です。自ら患者としての体験をユーモラスに描いた作品も多いと思いますが実際の闘病生活はおそらくは深刻な事態も少なくなかったのでしょう。精神科医でもあった北杜夫さんがご自身の専門領域の病気に罹患したことをカミングアウトするには大変な勇気が必要だったのではないかと思います。医師は多くの場合、精神疾患はもちろん生活習慣病やちょっとした体調の不良もあまり同僚に話さないことが多いものです。それは一般的な「恥ずかしさ」もありますが患者の役割を正しく演じることに慣れていないことが大きな理由ではないかと私は思うのです。医者は治す人、患者は治される人というある種のパターナリズムを無意識のうちに背負わされている医師は少なくありません。医師どおしの会話の中では、患者への同情・共感をあえてはずして、疾患そのものの自然科学的事象についてのみ議論することが多いと思います。特に内科系の症例検討会などでは、疾患の分子的現象から疫学的考察についてまで大いに「科学的な」議論は戦わせますが、そこに生々しい人間のやまい、こころ、いたみについての言及は意識的に排除するのではないかと思います。

私のリウマチ学の師匠は、自ら勤めた病院で末期癌の闘病を遂げられました。優れた臨床家であり教育者であり師匠であった先生の、自ら病気を後輩医師や研修医にさらけ出された勇気については今なお私は驚嘆の思いを禁じ得ません。病み衰えてもなお先生の訓示の言葉は力強く、化学療法のため薄くなった頭髪をさらし車椅子を使わざるをえなくなってもなお先生は余りある大きさで私たちを圧倒しました。

私が当直の夜、ベッドサイドで先生の左腕に点滴ルートの確保をしていたさなか先生は付き添いをされていた奥様に一言、「明日はお粥を食べてみたいな」と静かにおっしゃったことが忘れられません。その言葉の寂しさを思い出すたび今でも私は目頭が熱くなるのです。それは患者としての先生を強く感じ、同時に奥様への深い労いの気持ちを思い出すからに違いありません。患者としての先生は、痛々しくも潔く病気と対峙されていました。師匠はご自身の闘病の最期の姿を後進に見せることによって、私たちへの最終講義を締めくくろうとされておられたように思われてなりません。

北杜夫さんも私の師匠も自分の病いを他人にさらけだすことで、より深くより強く、忘れがたい影響を周囲に与えることになりました。多くの医療従事者が、自らの病気や健康、死生観について、EBMだけでは尽くせない、実体のある物語として人に語ることが大きな意味があるのではないでしょうか。それは医師が宿命的に逃れられない「医師であるという呪縛」から解き放たれて自らの「患者性」に気付く行為であるからです。そしてそれは言いかえるならば、患者というものを真摯により深く理解しようとする作業に他ならないからです。「よき医師はよき患者」。

祈りと医療

投稿日:2012/1/11

私は特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、医療の中で「祈り」が重要なパートを占めることを確信しています。このことは、昨年11月に開催された第16回日本心療内科学会(村上正人会長)の市民公開講座のテーマでも深く議論されました。私は祈るという行為こそが太古から継続する医療の本質的なかたちだと思っています。これは決して科学としての医学を下座へ追いやる議論ではありません。どのように医学が進歩しても人が死にゆく存在であるかぎり、医療者は最終的に大きな超越者に患者の生命を委ねるしかない。その超越者のことを神と呼んでもよいし自然の摂理と呼ぶこともできる。あらゆる技術や知識を尽くして「なんとかしよう」とすることがわたしたちの責務ですが、その先にあるものに対しては、最終的に医師は目を閉じるか祈るかのどちらかしかない。そうであるならば私は祈る立場を選びたい。

今日ある方から、かつて私が医師として関わった患者さんの死を知らされました。このときに亡くなったその方ご本人とご家族に「深くお祈り申し上げたい」という気持ちになりました。それは「私に期待していただいたことを私は果たしきれなかったに違いないのですが、せめて何か善きものが皆様のもとに残りますよう」という思い。「苦しいことが多い闘病生活でしたがなにがしかそこに意義深い真実があったと信じたい」という思い。わたしたちの医療が患者の死をもって終わるときに、私たちは「祈る」ということでしか贖えないものを感じます。私たちは死を少しだけ先延ばしにしたり、少しばかり痛みを和らげたりすることもあるが逆にそれさえもできないことも少なくないのです。そういう時には祈ることこそが医師の最終的な仕事なのだと気付かされるのです。

病者の祈りという有名な詩の中に「求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた」という一節があります。治療がすべて報いられないときでも「願いがかなった」と感じられるでしょうか?最後に救われたという思いに至ることは可能でしょうか…確証はありませんが私は可能だと想像します。本当に理想的な医療者ー患者の関係性の中ではそういうことがありうるのではないかと。

リスクを減らすということ

投稿日:2012/1/9

たとえば、「若者ならばリスクを取ってでも、アグレッシブにいろんなことにチャレンジしていくべきだ」とか「政治家はリスクも取ってでもリーダーシップを発揮しなければならない」というような文脈では「リスクを回避する」生き方というのはあまり褒められた話ではないかもしれません。しかし「健康に良いこと」という医療の文脈では、健康を害するリスクをいかに軽減するかということが最大の関心事です。リスクを回避し減らすことが至上命題となります。
たとえばちょっと少なめに注いだグラスワインが関節リウマチに良いというような研究発表が最近ありました。これは米ハーバード大医学部のBing Lu氏らが、昨年の米国リウマチ学会(ACR2011)で発表したもので、少量アルコールによる関節リウマチ発症抑制効果を報告しています(http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/gakkai/acr2011/201111/522399.html)。1日に5g未満のアルコールを摂取する女性は、全く飲まない女性に比べてRA発症リスクが22%軽減され、1日に5~9gのアルコールを摂取する女性は35%までリスクが軽減されたと。これは確かに立派なエビデンス(統計的に意味のある、臨床研究上の証拠といった意味合い)かもしれません。ただこのエビデンスを医師はどのように診療に用いるべきでしょうか?少しのアルコールは体に良いからとリウマチの方に勧めるでしょうか?あるいはリウマチの家族歴がある人にアルコールを少し飲んでリウマチ発症リスクを減らしましょうということをいうでしょうか?あるいは、タバコをやめられないリウマチの方がいたとして、「タバコはリウマチを悪くするから禁煙すべきだが、どうしてもやめられないならばせめて少量のアルコールを飲みなさい」と勧めるべきでしょうか?
これらはいずれも先の臨床研究から導きだされたエビデンスを正しく運用した話ではないのですが、研究の結果だけを聞くと、そのような話を診察室でもっともらしくしてしまいそうです。
この研究は、もともとリウマチではない人たちをアルコール摂取量によって群分けをして26年間の観察期間中にリウマチを発症した割合を各群で比較したものです。実際少量のアルコールを飲むことがリウマチ発症やリウマチの疾患経過に与える効果を研究したものではないので上記のような「アドバイス」をすることはエビデンスの誤用というものでしょう。健康情報には結構こういうものが少なくないので意図的に一部のエビデンスのみを使うことは医師として慎むべきであると思っています。

病気のリスクを減らすために別のリスクを取るという選択が必要な時がしばしば日常診療の場ではあります。またリスクを高めることがわかっていてもせざるを得ない医療もあります(ハイリスク患者の緊急手術など)。こちらを立てればあっちが立たずといった感じでしょうか。もちろん私自身、EBM(エビデンス・ベイスド・メディシン=統計的証拠に基づいた医療)が治療方針決定上の最大のツールであることを認めつつも、EBMという「天下の宝刀」だけを振り回すことは戒めなければならないと思います。

お正月に飲むお屠蘇は、昔から言われる百薬の長たる少量の酒の効用から生まれたものかもしれません。ただ大酒飲みほどこの「百薬の長」という宝刀を振り回しているような気がしないでも…

ちびっとクリニック?

投稿日:2011/12/20

開業案内の名刺を渡したとき「ちびっとクリニックですか?」と言われたことが1回や2回ではありません。ロゴの字体のせいですが確かに言われてみれば無理ないかなとも。

開業が目前になりてんてこまいです。不安でいっぱいですなんとか乗り切ります!

看護師募集中です!!

開業準備

投稿日:2011/12/6

開業までもう2ヶ月を切ってしまいました。従業員の募集・面接、医療機器の購入、保健所提出の書類の準備などに追われる毎日です。ブログを立ち上げたもののいざちゃんとした内容のものを書こうと思うとつい後回しにしてしまい、更新ができませんでした。

去る11月26日、27日の2日間、東京国際交流館で第16回日本心療内科学会が開かれ、今回初めて参加しました。心と体を統合的に診る心身医学の立場は、リウマチ性疾患を全人的に診ようとする私たちの立場と共通するものと感じました。線維筋痛症、慢性疲労症候群、過敏性腸症候群はリウマチ膠原病でもしばしばみられる心身症的徴候ですが、しばしば難治性です。そこまで明確な病態ではなくても、心理的要因がリウマチ膠原病の活動性を左右することは日常的に良く経験することです。リウマチ医が得意なステロイド薬や免疫抑制薬の匙加減では歯が立たない領域です。以前からこうした病態にアプローチができる心療内科の治療ツールを身につけたいと思っていたのですが、物見遊山の学会参加などではこの分野の高い山脈の全景を見ることもおぼつかないと感じた次第です。SSRIやSNRI、プレガバリンなどとともに、心理学的アプローチ(自立訓練法、交流分析、認知行動療法)を少しずつ勉強していこうと思っています。

開業準備とは何もハードを揃えたり、事務作業をするばかりではありません。自分自身の気持ちの中に、ぶれない軸足を固めるための心の準備こそ一番重要なのかもしれません。

米国リウマチ学会2011に参加

投稿日:2011/11/18

2011年11月5日から5日間、シカゴで米国リウマチ学会(ACR)が開催されました。私は1998年から断続的に参加してきましたが今回は7回目、2年ぶりの参加でした。今回は開業前の家族旅行を兼ねての参加で(学会に家族を連れていくとは不謹慎とおしかりをうけそうですが)review courseという、最近のリウマチ学領域のトピックスをオーバービューするセッションに参加してきました。
SLE、血管炎、腱付着部炎、免疫不全などの講義が1時間弱ずつ割りふられていて、集中力の維持が困難になりながらも何とかすべてのレクチャーを聞き終えました。
私が最も関心を持った講義は線維筋痛症に関するものでした。ACRが線維筋痛症をリウマチ性疾患と明確に位置づけている姿勢を改めて実感しました。末梢性・炎症性疼痛のみがリウマチ医の守備範囲だという先生が日本のリウマチ医にはまだまだ少なくないと思いますが、患者にとっては痛みの病態がわかって受診することは稀でしょう。身体の痛みを主訴にリウマチ科外来を受診したのに窓口で門前払いを受けるべきではないのです。
関節リウマチの生物学製剤の華々しい成果だけではなく様々なリウマチ性疾患の諸問題にフォーカスをあてるACRの懐の広さに改めて感銘を受けた次第です。

何故らびっと? Concept 院長ブログ 医療雑話 クリニックからのお知らせ Doctor's Fileにて紹介されました
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