私は特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、医療の中で「祈り」が重要なパートを占めることを確信しています。このことは、昨年11月に開催された第16回日本心療内科学会(村上正人会長)の市民公開講座のテーマでも深く議論されました。私は祈るという行為こそが太古から継続する医療の本質的なかたちだと思っています。これは決して科学としての医学を下座へ追いやる議論ではありません。どのように医学が進歩しても人が死にゆく存在であるかぎり、医療者は最終的に大きな超越者に患者の生命を委ねるしかない。その超越者のことを神と呼んでもよいし自然の摂理と呼ぶこともできる。あらゆる技術や知識を尽くして「なんとかしよう」とすることがわたしたちの責務ですが、その先にあるものに対しては、最終的に医師は目を閉じるか祈るかのどちらかしかない。そうであるならば私は祈る立場を選びたい。
今日ある方から、かつて私が医師として関わった患者さんの死を知らされました。このときに亡くなったその方ご本人とご家族に「深くお祈り申し上げたい」という気持ちになりました。それは「私に期待していただいたことを私は果たしきれなかったに違いないのですが、せめて何か善きものが皆様のもとに残りますよう」という思い。「苦しいことが多い闘病生活でしたがなにがしかそこに意義深い真実があったと信じたい」という思い。わたしたちの医療が患者の死をもって終わるときに、私たちは「祈る」ということでしか贖えないものを感じます。私たちは死を少しだけ先延ばしにしたり、少しばかり痛みを和らげたりすることもあるが逆にそれさえもできないことも少なくないのです。そういう時には祈ることこそが医師の最終的な仕事なのだと気付かされるのです。
病者の祈りという有名な詩の中に「求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた」という一節があります。治療がすべて報いられないときでも「願いがかなった」と感じられるでしょうか?最後に救われたという思いに至ることは可能でしょうか…確証はありませんが私は可能だと想像します。本当に理想的な医療者ー患者の関係性の中ではそういうことがありうるのではないかと。