「さようなら」とキツネは言った。「じゃ秘密を言うよ。簡単なことなんだー
ものは心で見る。肝心なことは目では見えない」
「肝心なことは目では見えない」と王子さまは忘れないために繰り返した。
サンテグジュペリ 池澤夏樹 訳 星の王子さま XXI
痛みを訴える患者の診療は、多くの場合「目で見える」世界に通じるドアから入る。X線やMRI、血液検査、最近は関節超音波検査も痛みの正体を可視化する上で有用である。「見える世界」の住人は幸いである。関節リウマチであったり、リウマチ性多発筋痛症であったり、腱鞘炎や肩関節周囲炎や頚椎症の名前を得て、痛みの部屋から出て行くことになる。これら「見える世界」の住人には、標準化された治療のガイドラインやリコメンデーションが用意されているからだ。「見える世界」の住人が去った後に、未だ目に見えない、名付けられない痛みの住人が残される。それは、今のところこうした痛みの正体をきちんと見るための眼鏡がないだけなのかもしれないが、「非器質的疼痛」と暫定的に呼ばれている。以前なら「心因性疼痛」のレッテルが用意されていた。
一方「器質的」であるか「非器質的」であるかは議論せずに、疾患の要素を臨床的症候に細分化して点数化し、カットオフ値を定めて診断(分類)する立場がある。線維筋痛症という疾患はこの立場に立って診断される。線維筋痛症の疼痛は中枢神経を除いて身体の異常に裏付けられない。医学の進歩により病態解明が進んでいけば現在の「非器質的疼痛」のカテゴリーはどんどん縮小していずれ消滅するのかもしれないし、線維筋痛症は疾患概念を再構成しながら単一病態に純化していくかもしれない。あるいは他疾患(例えば、筋痛症性脳脊髄炎)と統合されて別の名前で呼ばれることになるのかもしれない。しかしそれでも痛みの全てが「見える世界」の中でつまびらかになるとは、私は思わない。
この線維筋痛症が厄介なのは、身体科の治療として、臓器としての脳・脊髄に作用する薬(SNRIやプレガバリン)を使用するだけでは、さほどの効果が期待できない点にある。目では見えない治療が大きなカギを握ることになる。それは何かというと、おそらく「痛む人々」の「物語」を共有する作業の中にあると私は感じている。国際疼痛学会の定義によれば、疼痛とは実質的な感覚だけではなく、不快な情動体験でもあると言われる。ここでは痛みを引き起こす解剖学的な組織損傷の有無は問わないと強調されている。情動体験は人生の長い歴史の中で形成された「物語」であるため、狭義の医療介入でできることはしれているし、悪しき情動体験そのものを消すことは医療行為としての目標にはならないであろう。
患者の「物語」の共有作業は、開業医の資質として必須のものだと理解しているが必ずしも容易ではない。かくいう私も、患者の「物語」に共感できず診察室で途方にくれることも少なくない。それでも私はNarrative-based medicineと呼ばれる医療の方法論は、EBM同様にもっと強調されるべきだと考える。これは有史前からの「医療」の根源的方法論だと考えるからだ。最近の関節リウマチ治療においては“Treat to target”という合言葉がしばしば唱えられる。治療目標を明確にして、疾患活動性を定期的に評価(数値化)し、寛解を達成すべく治療調節しようというものである。ただ数値化しうる治療目標のみに拘泥することが、「目に見えない」疾病理解の妨げになることはないかとも危惧している。
目に見えない疼痛診療の迷路に迷い込むと、時に砂漠の中に道を失っているような不安に襲われる。ここには出口はないのではないか、と。しかし本当に、ごく稀に、豊かで美しい水脈にたどり着いた時の喜びはなにものにも喩え難い。目に見えるEBMの世界にはない楽しみでもある。
「砂漠がきれいなのは」と王子さまは言った、「どこかに井戸を1つ隠しているからだよ」
サンテグジュペリ 池澤夏樹 訳 星の王子さま XXIV