親が介護を必要とする年齢になって初めて自らの老後を実感として考えるようになる。
平均寿命まで生きる前提で、中年期以降の人間は自分の人生の残り時間をぼんやり考えるが、平均寿命まで健康でいられる保証などは何もない。医者などしていると、つつがなく年を重ねることが稀有なことのように思われるし、老衰などというのは宝くじ級の幸運な人にのみ許される死に方だと感じる。
他人事はともかく、自分の行く末を自らきちんと想像して老後の準備することは、医者であろうが僧侶であろうが難しいことに変わりはない。50歳の私は、30年後には生きているかどうかわからないと実感するが、1年後に死ぬかもしれないとは考えない。
平成24年厚労省の発表した簡易生命表によると、50歳の男の平均余命は31.7年で、50歳の男が51歳まで生きる確率は99.7%であるから、上記の実感は統計的に正しいと言えるかもしれない。しかし30年前20歳だった私が今日まで生きてきた時間の濃密さはこの先の30年にはおそらくないだろうし、実際には2ー3倍くらいのスピードで老化して行くような感覚なのではあるまいか。仮にこれからの時間の流れがこれまでの3倍で過ぎて行く感覚であるならば、40歳から今日までの「感覚時間」しかこの先残されていないことになる。それではあんまりだ。とても焦る。もし事故や病気が襲ってきたら、この先数年分の「感覚時間」しか残っていないのかもしれない。そう考えると先の統計的実感も何やら怪しく思われてくる。
83歳の母親が84歳までに亡くなる死亡率は厚労省の簡易生命表によると3.9%でしかなく、不謹慎ながらあまりに低いその値に驚く。日本人女性の1年後の死亡率が3割を超えるのは実に100歳以上になってからである。驚くなかれ104歳の1年後の死亡率でさえ42.2%しかないのは本当なのか?この表を見ていると生きている高齢者はますます不死身になるように見えてくる。
83歳の母親は明日にでも死んでしまうような気持ちでいるらしいが、それは「感覚時間」の話であって本当は?年分の実時間を残しているということなのか?それはそれで「慶賀に堪えない」のかもしれないが…