らびっとクリニック院長の医療雑話

リウマチの寛解維持、登山に例えるならば・・・

投稿日:2015/7/26

関節リウマチの治療のゴールは「寛解」の持続にあります。

寛解とは何か?

疾患活動性が消失し、血液でみる炎症反応や関節の腫れや痛みが消えてしまった状態を臨床的寛解と呼んでいます。さらに画像検査で関節炎による関節構造破壊がない状態(構造的寛解)、そして日常生活動作上あらゆることが全く正常にこなせる状態(機能的寛解)を順次到達していくことが最終ゴールとも言われています、理想的には。ただすべての患者さんで臨床的→構造的→機能的寛解に到達できるとは限りません。寛解到達を山登りに例えると、高い頂を目指すのであればいくつものたやすくはない条件が揃っている必要があるでしょう。登山のための体力と意思(患者年齢や疾患予後因子の有無、患者自身のモチベーション)、登山装備を備えるための投資(医療費負担のための経済的な余裕)、登山時の天候や運(患者の居住地域、巡り合った主治医の良し悪し、薬との相性が良いこと)など様々な条件が必要です。我々リウマチ医はもっとも高いレベルの寛解を目指すべきだと言いますが、すべての患者の体力や懐具合やモチベーションを評価した上で、「最高峰」への道順を示せる登山ガイドであるとは限りません。

医療にはお金がかかる。言い方を変えると「医療にお金をかけようと思えば際限なくお金がかかる」。私たちは食堂で昼食のメニューを決める際に予算を抜きにして選ぶいうことはあり得ない。医療にも実はメニューがないわけではないのですが常に目に見える所に掲示されているものではありません。またお金の話の苦手な医者も多い。どのくらいの医療費負担が可能かによって使用できる薬剤、検査が違ってきます。高い薬ほど良く効くわけでもなく高い検査ほど診断制度が高いわけでもありません。しかも医療行為には不確実性が伴います。「最高のコース」の金額を支払っても期待した結果を得られないことも少なくありません。

そう考えていくと「健康と生命」は人権というよりも、資本主義社会の商品としての側面が見えてきます。健康という消費財にどのくらいのコストをかけるかをそれぞれ個人と社会が決めることはたやすいことではありません。山に登ることならば好きな人だけが目指せば良いのですが、生きていくことはすべての人に課せれれたワークでもある。健康に働くことによって税金が取り戻せるならばかける医療費が膨大であっても無駄銭ではないという医療経済上の議論もありますが、働けない高齢者や障害者を切り捨てて良いとは誰も言えないでしょう。健康保険自己負担割合がこれからの世の中でどのように変遷するか、あるいは皆保険がカバーできる範囲は、健康コスト全体に占める人権部分と消費財部分の比率の評価の中で決まっていくのではないでしょうか。このような議論のなかで保険診療と自由診療の住み分けが提案されるかもしれません。次に待っているのは国民皆保険から民間医療保険への部分的以降の問題なのでしょうか?もし一旦戦争が起これば、健康コストの人権部分比率は限りなく縮小されることは間違いない気がします。

何故らびっと? Concept 院長ブログ 医療雑話 クリニックからのお知らせ Doctor's Fileにて紹介されました
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