らびっとクリニック院長の医療雑話

コミュニケーションとしての痛み

投稿日:2013/8/4

私の母は田舎で一人暮らしをしていますが、私が電話をかけたり帰省するたびに自分の体の不調ばかり執拗に訴え続けます。「こんなに足が痛むのはきっと大きな病気が隠れているに違いない」と何年にもわたって聞かされ続けてきました。大きな病気が隠れていたのなら、この数年の年月の間に命を落とすか障害におちいっているのに違いないから、そんな痛みはたいしたものではないというようなことを息子である私は言い続けてきました。
医者の言葉としてはもちろん不適切な助言ですが、相手は私を真っ当な医者だとは思っていないし、私の方も患者としての母親に接しているわけではないのでこういう売り買い言葉の投げ合いになってしまうのです。

さて、私の母もそうですが、痛みの訴えがしばしば家族とのコミュニケーションツールとなっていることがあります。「重大な痛み=危険な病気=保護してもらう権利がある」という無意識の主張になって周りを攻撃してしまう。家族はそのような訴えを聞くと大抵の場合動揺するか怒りを感じます。最初は重大な病気だと思い病院をいろいろ渡り歩くけれど、異常が見つからないのが長期化すると家族は、痛みの正体は「仮病」ではないかと疑いだします。患者本人はそれを否定するために、ますます痛みの訴えがエスカレートしてくるのです。

線維筋痛症の方を多く見ているとこの「家族的疲弊状態」に陥ったパターンをしばしば経験します。家族にはまずこの痛みは仮病ではないことを説明し、患者さんには痛みの存在を認める一方でこの痛みが解剖学的な破壊を意味するものではないことを説明します。痛みを相対化する必要性を説きます。

コミュニケーションは本来、双方向的で平等的なやり取りであるべきものですが、痛みを介するコミュニケーションは圧倒的に痛みを訴える側に主張の強さがあり主導権を持っていることも少なくない。したがって痛みを訴られる側が、逆に苦痛を感じることがあり得るのです。家族もまた「痛み」の患者と言えるかもしれません。

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