妻は看護師であり、当クリニックの従業員でもある。当院の医療(つまりは私の診療態度)に対する最も辛辣ななクレイマーでもある。私の言葉がいかに患者に届かないか、傷つけているか、わかりにくく、自己満足的であるか、時に冷酷であるか、さらには判断が遅く優柔不断であるかを、クリニック内でも自宅内でも四六時中ことあるごとに指摘するので私は、しばしば辟易する。ときにケンカになる。私は妻の指摘にいちいち腹をたてるがそれは妻の指摘通りだと思うからでもある。
妻の視点はシンプルである。自分が患者として私の診療を受けたならばどう感じるのかという一点である。「当たり前の医者として」振舞って欲しいのだと。
私の師匠はそのような先生であった。江戸弁で「風邪をしかないでね」を必ず別れ際に言って患者の背中をポンと押し出す(実際に叩くわけではないが)人だった。患者は癒されて診察室を出る。師匠は患者に腹を立てない。師匠は「わがままな患者」を見ても「(病を得て)患者になるということが、人をわがままにもするのだ」と言った。無能な研修医を戒めるように。
ほぼ毎年師匠の命日頃に大塚の寺に墓参りをするが、私はいつまでも師匠に近づけない事を墓前に悔いる。驚くべきことに師匠に初めて出会った頃の、先生の年に自分が近づきつつあるのだ。
私は慢性疼痛の患者を見るときほど自分の医師としての未熟さ・無能さを苦虫を噛む思いで嚙みしめることはない。もちろん妻に指摘されるまでもなく私は未熟である。治せる患者に対してゆとりを持つことは誰でもできる。治せないかもしれない患者に接しながら私はいつも「せめて当たり前の医者として」言葉を選び、謙虚でなければならないと思う。
某社の「ベストドクター」に選ばれたことを、私はおそらくは嬉しそうにまた得意そうに妻に話したのだろう。妻はニコリともせず「謙虚になれない医者のどこがベストドクターなのか」とにべもない。
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臨床医とは、病気を診断したり治療することを 本来の任務とする人ではない。臨床医とは、その本来の任務として 人間が病気から受ける衝撃全体を 最も効果的に取り除くという目的をもって、病む人間をマネージする人である。(タマルティ)
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